今では、下関の特産品となった蒲鉾ですが、明治の頃に当家の先祖が蒲鉾作りをしたことが始まりでした。
この、むらたの物語を紹介します。
語り/村田効之
~明治から太平洋戦争~
明治の末期‐海との関わり
時代は遡ること明治の終わり。
私の祖父・村田鹿造は、下関の吉母(よしも)という所へ流れ着来ます。
そこで漁師を始めたそうですが、仕事は順調で、しばらくすると船も何艘か所有するようになっていたそうです。
しかし、ある日やって来た台風のせいで海は大時化(しけ)。なんと網を流されてしまい、大きな損害を被った鹿造は、やむなく漁師を廃業しました。
大正の頃‐蒲鉾始め
漁師を廃業した鹿造は、吉母の隣・吉見という所へ移り住んだそうです。
そこでアイスキャンデーと蒲鉾の製造を始めたそうですが、だんだんと規模も大きくなり、アイスキャンデーの製造を止めて、蒲鉾の製造一本でやっていく事を決めます。これが村田の「蒲鉾始め」でした。
その頃、近隣には蒲鉾屋はなく、鹿造が蒲鉾の製造技術を幾人かに教え、次第に蒲鉾屋が増え、やがて下関での主要産地となってゆきました。
今では年に1回、吉見・安岡地区のかまぼこ業者で「蒲鉾祭り」が行われています。
昭和‐戦争の時代
蒲鉾製造業も順調にすすみ、鹿造は三男三女に恵まれます。
長男は耕一、次男は豊、そして三男は私の父・実。この名は「耕して豊に実る」という、ものの成長を表した命名の仕方でした。
長男・耕一は神童と呼ばれ、容姿端麗、頭脳明晰で、周りの女性の憧れの的のような存在であったそうですが、戦争へと向かう時代です。予科練に入隊した耕一は、残念ながら先の大戦で帰らぬ人となります。
次男・豊(私の叔父)がその後、家業を継ぐこととなりましたが、この豊は酒が入ると気が大きくなり、喧嘩をしたくなる性格で、酔っぱらうと近くの橋の上の真ん中に座り、通りかかった人に喧嘩を売るということも度々あったそうです。
私の父である三男・実は戦時中、学校へ行って勉強するのがいやで、中退して海軍へ志願し戦地へ向かうこととなります。
広島の呉に配備され、各地を転戦し、終戦を鹿児島の喜界島で迎えました。
「安岡」の地へ
終戦から家業をずっと手伝っておりましたが、二十代後半に独立して隣の安岡地区へ移り住むこととなります。この安岡というところが大変な町だったのであります。地元の荒くれ者は大変なもんで度々訪れては刃物をチラつかせ金品をたかっておりました。市内のヤクザ者でも安岡の人間とは喧嘩するなと言われるくらいめちゃくちゃな者がおりました。そういったことも耐え抜き大変な苦労の結果仕事も順調に進んでゆきました。
地元であがる新鮮な鯛、エソ、グチなどを原料として高品質なかまぼこを造り続け規模も拡大され、昭和三十年代半ばには鉄筋コンクリートの新工場を稼働させました。その時の落成式の時だったと思いますが、兄の豊が弟も一人前になったと流した涙は今でも覚えております。
その五年後には工場を更に増築し売り上げも順調に増え続けてゆきました。工場は大きくなってもまだまだ手仕事が多く、製造数にも限りがあり造ったものは全て売れた時代でした。
少し時はさかのぼりますが、私の生まれは昭和二十九年十二月であります。その頃は両親とも朝は二時三時から夜は遅くまで寝る間も惜しんで仕事に精を出し家族を支えておりました。私も兄弟も忙しいときはよそに預けられるという状態が幼い頃は続きました。それでも、たまの休みには遊びに連れて行ってくれておりました。
父の実は、競艇が一つの趣味でありまして、私が生まれたと同時に下関競艇の開催がはじまり、幼い頃、金網越しに競艇のボートを見て甲高いエンジン音を聞いていたことをハッキリと覚えております。
昭和三十年代から徐々に機械化が進み、原料でありますスケソウダラの冷凍すり身が開発され生産量は急激に伸びてゆきました。更に同時期にはスーパーマーケット(以後スーパーという)の出現で販路も市場経由だけでなく大幅に広がりをみせてまいりました。
時代は大きく移り、昭和末期から平成にかけてスーパーの店舗が大幅に増え、乱立状態となってゆきます。現在ではスーパーは店舗が過剰で、三分の一が無くならなければやっていけない状態であると言われております。スーパーは消費者の顔よりも競合店の売価が気になり、本当の消費者の欲求が分からなくなっているのではないでしょうか。スーパーは出来るだけ競合店より安く売ろうとします、そして出来るだけ利益をとろうとします。そのしわ寄せは、問屋さんや我々製造者にまわってきます。製造者は赤字を続けると倒産してしまいますので、原料を落としたり、歩留まりを上げたりして多少でも利益を出そうとして品質が落ちてしまいます。最終的に消費者の方々に嫌われて売れなくなります。今、そういったいった状態が日本中でおきています。いろいろと問題になっている食品の偽装問題は少しでもコストを抑えようとするそういう背景があることを認識していただきたいと思います。